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一言で言うならば、バスケバカです。 私の身体には、白血球と赤血球と『バスケ球』が流れています、きっと。 あと、音楽はHip-Hop系・R&B・レゲエ・SOUL MUSIC等が好き。 ストリートバスケットボールから始まって、色々なバスケ間の垣根を無くそう!と思って、日々活動をしています。そして、バスケ・ファンの気持ちを忘れずに居たいな~と。 私『vinko』が運営しているHPです。 StreetPride(ストリート プライド) http://www9.ocn.ne.jp/~skip/ 私の全ての活動は、ココから発信しています。

2006年09月29日

月刊HOOP山本編集長インタビュー【前編】

バスケットボール好きなら一度は ご覧になった事があるのでは
ないでしょうか。日本文化出版から発行の【月刊HOOP】。
言わずと知れたNBAの記事と写真が満載のバスケットボール専門雑誌。

http://www.nbp.ne.jp/

【月刊HOOP】は、私達バスケットボール・ファンの間では
「記事が信用できる雑誌」としても有名。そしてNBAを中心に、
最近ではアメリカのStreetbasketball事情も連載されており、
読んでいてとても面白い。

その編集長をされている方というのは、いったいどのような人だろう?
ネットで検索してみても、「○○のバスケットボール大会のヘッドコーチ」
までは出て来るものの それ以上はどこにも掲載されていない。


山本編集長は今年8月で40歳になったばかり。ベールに包まれた
【月刊HOOP】編集長・山本達人(たつひと)氏に、お話を伺いました。

インタビューの最後に、このブログをご覧になった方だけに、
山本編集長からプレゼントが有りますので、お楽しみに!


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

【バスケットボールを始めるキッカケ】

「バスケットボールを始めるキッカケは、小学校6年生の時。当時は
ミニバスなんて無い。あったかも知れないけれど、小学校の授業で
やるのは“ポートボール”だった時代。
ある日、たまたま体育館の掃除の班になって、何人かが昼に
集まるのだけど、掃除なんかやらないワケですよ(笑)。
目の前にあったボールで、体育館に付いていたリングに向かって、
バスケットボールらしきものをして毎日遊んでいた。
当然、先生に見つかり大変な思いをするんですけど。」

「先生の交換条件として、毎日マジメに掃除をやったら、バスケットボールを
教えてやると。体育の先生では無かったとは思うんですけど、その時の
バスケットボールが楽しくて、それで“中学に行ったらバスケットボール部に
入ろう”と友達と話していた。
実際に入部したのは私1人でしたけどね(苦笑)。まあ私達の年代には
有りがちな野球少年でもあったのですが、入った中学には野球部が無かった
というのも、バスケットボール部に入った理由の1つですね。」

現在、日本文化出版の社屋がある場所は、偶然ですが山本編集長の地元の近く。
中学はここの近所に通っていた。
その後、“東海大学高輪台高校”を選んだ理由は?

「本当はバスケットボールが強い学校に行きたかったんですけどね。
中学では部員も少なくてあまり大会にも出られずに、実績があるワケでも
無かったので、高校も決してバスケットボールが強い学校では無かった。
確か二次募集で、遅い時期に入学した記憶があります。バスケットボールは、
都大会に出る前の段階で一回戦か二回戦負け、それも100点ゲームで負けちゃう。
嫌んなっちゃうくらい負け慣れていたレベル(苦笑)。」


【中高大の10年間で、一番心に残った出来事】

■良い思い出
「高校2年の4月に、先輩が怪我をして自分が急にスターターで出場する事に
なったんですけど、40分フル出場して、SGとして40得点とって勝ったんですよ。
それが春季大会の時で、秋の公式戦では54得点。練習試合では70得点台も
出した事が。とにかくその40得点した時から、点数とる事が ものすごく
楽しくなっちゃったんです。」

「まだスリーポイントラインも無い時代でしたから、ひたすらミドルシュート
だとかレイアップだとかで地道に2点ずつ。そうやって自分が得点する事で、
チームも準々決勝戦まで出られて。最終的には都大会にも出られたし、
東京都は強かったんですけど、インターハイに出るようなチーム相手にも
20得点くらい取れていました。」


■複雑な思い出
「高校3年の時に、練習中に足首を骨折したんですよ。それまでは大学で
バスケットボール続けようとは深く考えていなかったんですが、高校最後の年を
中途半端に終わってしまった。それが大学でバスケットボールをしようと思った
分岐点の出来事。そして、どうせやるなら ちゃんとした環境の中で
バスケットボールしたいと思い、東海大体育学部体育学科へ入学。
高校から東海大付属に入り、そのまま大学へ進んだという事です。」


【心に残った思い出として“高校時代”を

挙げるという事は、大学時代は?】


「実は大学も、夏頃なんですけど怪我から始まったんですよ。半月板の手術をして、
それでプレイ出来なくて、Aチームのマネージャーをする“はめ”になった。
色々な連絡事項だとか備品関係だとか。それでマネージャーは監督にくっついて
行くものですから、アチコチの学校の監督と知り合うワケですね。
その人脈が、この会社に入ってから大きく役に立つんですけどね(笑)。」

「で、審判の勉強も始めて、100試合くらい吹いていたかな。それで大学2年から
3年になる頃、再度プレイヤーとしてやってみたいと思い、怪我から
復帰するんですね。その頃かな、初めてダンクが出来たのは。177cmの身長で
垂直飛び80cmでした。練習の時、遊びでやっていて、ダンク出来た時は
驚きましたね。「あ~こういう風に出来るのか~」って。大学3年生の時に、
Bチームとして“神奈川リーグ”に出たのが、大学時代プレイヤーとしての
最後でしたね。」

「それから、就職活動の時期になるんですけど、当時アシスタントコーチを
しながら、審判もして、大学で教員免許を取っていた事もあって、指導者に
なりたい…と思い始めていたんです。そもそも、中高大と通して、あまり
先生からバスケットボールを教わって来なかったんですね。
だから、今こうしてバスケを知ろうと、色々と勉強するようになった…って、
先日も東海大の久保部長(当時、監督)と話したばかりなんです(笑)。」


【運命に導かれるように、この道に入った…】

「大学を卒業したら、体育の教員資格をもとに母校に就職したかったのですが
叶わなかった。いきなり無職状態だったけれど、月刊バスケットボールの人を
知っていたので、“何かないですかね?”と聞いて、アルバイトをし始めたんです。
当時“ジャパンクラシック”というNCAAを日本に呼ぶ企画があり、
島本和彦さんのカバン持ちみたいな事をしていたので、島本さんが
この会社に僕を入れてくれたような感じですね。」

「7月頃、会社に空きが出来たので“どうか?”と話を頂いた時、教員にも
なりたかったので非常に迷ったのですが、誘って頂いた事もあって
日本文化出版に入るほうに決めたんです。なぜならば、教員には資格を
持っていれば、いつでもなれる…と思っていたので、3年間くらい編集部に
勤務してから…とも少なからず思っていた。
そうしたら、こんなにドップリと(笑)。」

「高校3年生から31歳まで13年間、ずっと“ファミリー・テンス東京”という
クラブチームに所属してプレイしていた事も、教員よりバスケットボールの
道に進んだ理由の1つでした。バスケットボールの仕事が面白かったし、
そもそも教員になりたいのはバスケットボールの指導者になりたかったから。
でも実際に教員になったとしても、バスケットボールの指導をする時間は
ほんの一部。それが判って来たので、その頃にはどうしても教員にという
気持ちは薄らいでいました。」


【“編集長”と“ファミリー・テンス東京の

ヘッドコーチ”へのプロセス】


「1989年7月に正社員として入社してから、最初は月刊バスケットボール編集部に
居たのですが、ちょうど“HOOP”創刊の時期とも重なったので、少しお手伝いを
したんです。そうこうしているうちに日本でバレーの“世界選手権”が
おこなわれる為に、“バレーボール編集部員”が必要になった。
それで僕が2年間バレーボール編集部に移った時期があったんです。
本来バレーボールが主体だった この会社としては、皆は“栄転”だと
言うんですけど、僕にとっては“左遷”でしかなかった(苦笑)。」

「バスケットボール編集部から移っていって元々のバレーボール編集部の
方々と同じ事をやっても、僕にはバレーボールの知識もないし同じようには
出来ない。それだったら新規開拓して、自分だけの分野というものを持ちたかった。
そこで“ビーチバレー”担当者を申し出て、コーナーを作ってもらって、
毎週ビーチバレーを観に行っていたんです。バレーボール関係者には
東海大出身者が多いので、僕が東海大出身と言っただけで色々な話を
してくれたし可愛がってもくれたんですけど、好きなバスケットボールじゃ
なかったので、正直その頃は生活も含めてグレていました(笑)。」

「2年間バレーボール編集部を経て、最初は季刊誌だったHOOPも“月刊誌”に
なっていたが、戻った先は“月刊バスケットボール”だった。
当時、田臥選手が能代工高校に1年生で入って来たばかり。書く事は一杯あった。
毎月、秋田・能代(のしろ)通いをして“月刊NOSHIRO”なんていうコーナーを
作ったりして色々な事をやっていたんです(笑)。」


山本編集長が29歳の頃、ファミリー・テンス東京(以下ファミテン)でプレイ
していた時に、膝前十字靭帯を2度も断裂したために手術をおこない、
またプレイ出来ない時期が続いていた。そして仕事で40~50回も秋田・能代
に通って、加藤監督の“勝ちたい”という教えに接しているうちに、
“チームを作っていく事や組み立て方”に興味を持ち、また“指導者”への
思いが ふつふつと湧いて来た。そして、ファミテンも世代交代をして
創設メンバーは全員いなくなっていた時代と重なり、山本編集長が
ファミテンのヘッドコーチになるという流れみたいなものが出来ていた。

そして3年間。田臥選手が能代工高校を卒業すると同時に、山本編集長も
“月刊バスケットボール”を卒業。元々、興味のあったNBAを扱う
“月刊HOOP”に「副編集長」という肩書きで戻る事になる。


アルバイトをしていた初期の頃に“月刊バスケットボール”の中で
NBAコーナーというものがあった(のちにそのコーナーが独立して、
“季刊誌HOOP”になるのだが)。まだ衛星放送でNBAを扱う事もネットも
無い時代、島本さんが現地で取材して来た情報を発信する貴重なコーナー
である。そこに関わっていた事もあり、アメリカのバスケットボールは
ずっと興味のある分野だった。


【好きな部門であるNBA。好きなチームというのは?】

「中2の頃にNBAオールスターが日本に来てるんですよ。ジャバーとか。
土曜日だったんですけどね、歯医者だと偽ってサボって代々木第一体育館へ
観に行ったんです(笑)。中学生で安いチケットしか買えないので、
並ばなきゃいけないですから。その時に見た初めてのNBAは、
カルチャーショックでしたね。今でこそスカイフックなど当たり前
ですけど、当時は“なんじゃ、こりゃーっ?!”と思いました。」

「マジック・ジョンソン・オールスターズが来日した時に、プログラム作成
に携わったんです。そのプログラムの見開きページに、マジック関連の色々
なグッズを集めた写真を掲載したんですが、そのほとんどは僕の私物を
カメラマンに撮ってもらったものなんです。それを新聞紙の大きさに
プリントした写真にサインが欲しくて持って行ったら、喜んでサインして
くれたんです。“コレ、全部オマエのか?”という話になったりして。」

「ヘッドコーチ業をしてしまうと特定のチームや選手に入れ込むという事は
無くなりましたが、実は僕の部屋はレイカーズのグッズだらけで。
オーセンティック・ジャージにサインが入った物は当たり前で、
当時、チームからもらった物で、“レイカーズのロゴが彫ってある
ティファニーの小物入れ”だとか“レイカーズのロゴが入ったシルクの
パジャマ”だとか、一般に売っていない物、いわゆるオーナーが何かの
記念品用に作らせているグッズですね。
そういう事もあって、あえて言うならば、中2で見たジャバーも
サインをもらったマジックも所属していて、当時強かったレイカーズが
好きですし、好きな選手はマジック・ジョンソンですね。」

「今でもレイカーズには興味が有りますが、ヘッドコーチ業を始めると
コーチとしてゲームを見てしまいますので、僕がNBAの事を
そんな偉そうには言えないんですけど、優秀なヘッドコーチの居る
チームにしか興味が沸かなくなりました。
例えば、この1年間 雑誌の企画でずっと勉強して来た事もあるんですけど、
トライアングル・オフェンスを発案したテックス・ウィンターだとか。
フィル・ジャクソンよりも、むしろ彼の方ですね。
あと、トランジッション・ゲームを多用するよりも、ハーフコート・
オフェンスをしっかりやるタイプのチームに興味があります。
“月刊HOOP”的にはカンベンしてくれよという華の無さなんですが(笑)、
コーチの目で観る“ピストンズ対スパーズ”なんて最高に面白いですね。」


【ヘッドコーチとしての師匠】

「今、“月刊HOOP”では“21世紀はNBAから学ぼう!”という企画を
ずっとやって来ているのですが、僕はバスケットボールをやって来た中で
あまり教わらずバスケットボールの事をよく知らないという自覚が
あったんです。そして日本で24秒ルールが導入される1年前に、
ヘッドコーチを請け負ったんですね。」

「具体的には、30秒ルールが24秒ルールに。前半後半が4ピリオド制に
日本のバスケットボールが大きく変化した。今までとは違い新しい事が
始まるワケだし、24秒ならNBAがお手本になるのだから、NBAから
(コーチとしての)プレイのヒントが探れるんじゃないのか?
そう思って、NBA解説者でヘッドコーチ歴も豊富な倉石 平(おさむ)さんに
相談したんです。それが、あのコーナーがスタートした理由です。
バレーボール部門に異動した時の、ビーチバレーの発想と通じるものが
有りますね。」

「ファミテンで試したところ、ヘッドコーチ1年目は東京では2位までしか
行けなくて関東でも1回戦負け。ところが2年目に24秒ルールが導入されると、
東京も関東も優勝、全国でも3位まで行った。あ、なるほどな…と。
まぁ選手も良かったんですけれどね(笑)。」

「その時にコーチングの楽しさを知ってしまった気になるんですね(笑)。
ただ、これだけは言えるんですけど、当時 元JBL選手だったり背の高い選手
だったり色々と在籍していましたが、僕がヘッドコーチとして これだけは
やった方が良いという信念は、どんな選手に対しても曲げなかったですね。」

「今から思うとヘッドコーチ1~2年目の時なんて、よくあんな無茶な事
やっていたな~と怖くなるんですけど、色々なコーチングの勉強を寝ないで
やっていたくらい必死でした。ただ やみくもに取り入れても、
「点」の集合なだけで論理とプレイが結びつかないコーチもいましたから、
そこは「線」にしていく努力をしました。中高大とバスケットボールを
ほとんど教わらずゼロからのスタートだったのが、逆に先入観なく勉強して
いけたので良かったですね(笑)。」

「ファミテンで全国3位になった時のタイミングで、国体監督を頼まれた
んです。まだ自分のチームも1~2年しかコーチしていないのにですよ。
“どうしよう?”という思いから、倉石さんに相談しましたね。
ファミテンと国体監督の一番の違いは、選抜で寄せ集められた選手を
短い期間で仕上げて結果を出さなければならない部分。」

「7月から選手を集め始めて、8月下旬のミニ国体で予選を突破しないと
本戦に出られない。そこが1つ目の関門。そこで突破できたら今度は10月中旬
から下旬にかけての本戦での戦いが2つ目の関門。すごいプレッシャーだった
んですが、倉石さんいわく“国体監督”なんて、なりたくてもなれない。
全国で47人しか選ばれない貴重な体験なのだから、
プレッシャーを楽しめ。”と。」

「1年目は富山国体でしたが、鹿児島とやって1回戦負けでした。敗因は、
何をやるかという優先順位とメンバーの選び方。そしてオフェンスも
ディフェンスも中途半端で、チームプランが駄目だった。ものすごく
悔しかったし、コーチ何年目というのは言い訳にしたくなかったので、
“オマエら、見とけよ”という思いで会場を去っていきましたね。
結局、国体監督は5年間やって最高は宮城国体の全国5位でした。」

「ファミテンでは、決勝で小浜さんの横浜ギガキャッツと対戦して
負けましたが、ほとんどの試合で僅差をものにする内容で来れたのは、
倉石さんから教わった“点差と時間のリスクマネジメント”の
効果でしたね。
“こんなに教わって良いものか”尋ねた事あるんですけど、
経験の差は倉石さんから教わった事で埋めて、そこから先に対して
苦労しろ。その方が効率が良い…と言われました。それからは何でも
倉石さんから聞くようになりましたね。」

「“バスケットボールのコーチを始めるために(倉石平・著)”
“21世紀はNBAから学ぼう(倉石平・著)”という単行本を日本文化出版から
出したんですが、今でこそエンデバー教則本などが有りますけれど、
当時はコーチの為の教科書的なものが無かったんですよね。
それこそ、コーチの居ない大学やクラブチームに対しても、この単行本や
今、月刊HOOPで連載中の“21世紀はNBAから学ぼう!”を見てもらえれば、
NBAが題材だとイメージも沸きやすいし、こうやったら点数とれるんじゃ
ないか?と思ってもらえると思います。」


「選手をコーチングする人は多いけれど、倉石さんは“指導者を指導出来る”
数少ない人だと思っているんです。だから、僕のコーチングは倉石さんの
コーチングです。ファミリー・テンス東京、国体、
AND1 mixtape tour in JAPAN、東西クラブチーム・オールスター戦、すべて。
夢は、倉石さんから教わったコーチングを僕がおこなったチームで、
倉石さんがヘッドコーチを務めるチームと対戦して勝つ事(笑)!


【後編に続く】

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■2006年FIBAバスケットボール世界選手権
http://www.fiba2006.com/index_j.html

■「世界バスケ選手権」勝手に応援団サイト
http://fiba2006.buzzlog.jp/

vinkoの運営するバスケ・ファンサイト「Street Pride」↓
http://www9.ocn.ne.jp/~skip/  

Posted by vinko at 17:56月刊HOOP山本 編集長